井上陽水  6/14(土)群馬ベイシア文化ホール

井上陽水氏のコンサートがこの町で今夜行われるらしい。
自分と同い年、同世代の聴衆が多数つめかけるのだろうな。

http://www.y-inoue.com/

自分がギターを弾き始めたのは中学一年。
ラジオから流れる、かぐや姫六文銭、赤い鳥などの歌に親しんだ
自分が一番好きだったのが赤い鳥・・・これはそのコーラスと
村井邦彦山上路夫コンビの楽曲がすてきで初めてライブを体験したのが
赤い鳥だった、陽水氏が今夜演奏する予定の同じ公共施設であり、
それは興奮する体験だった、音楽の、歌の楽しさを知った。
同時進行で、六文銭が歌う現代詩人(主に荒地系の)詩人による詩にも魅力されていた。ギターの練習、稚拙なコピーもどきは六文銭ソングブックから始まった。
もちろん、ラジオからは岡林友康、加川良高田渡吉田拓郎岡本おさみの詩)
などが飛び込んで来ていた。彼らはそれぞれの個性の差はあれ、すべて遠くにまた近くに「政治的変革」に対して顔を向けていたように思える。
社会的存在としてのあなたと私がどうやって住みよい正しいこの世界を作っていけるか変えていけるか。「安保」も当然影響していただろうしアメリカンフォークから伝えられた「公民権運動」と言う運動の存在も影響しただろう。
「歌は誰かのために歌う」
自分がコピーして、また自作して、歌うとしてもそれが基本と思う
それを自覚したのはつい最近なのだが。
ここら辺で培われたのだと思う。無意識にもいろんな音楽家の作品をプロ、アマ問わず聴いて自分が感動するのは決まって「誰かのため、誰かの力になりたい」というそういう意識が希薄であろうと遠くにそれを垣間見せてくれる作品、詩、歌なのである。

そしてそんな中でラジオから流れてきたのは「傘がない」
なんかすごい勢いでラジオから彼の歌が流れていたように思う。
「人生が二度あれば」・・・いい曲だと思った。

でも何曲も聴いているうちに違和感が、何だろうこれは、
今までのシンガーとどこが違う?同級生たちが陽水、陽水とあつくなっているのがよくわからんかった。

そうか
彼は「私」もしくは「自分」を歌っているのだ。
誰だって「自分」の思ったことを歌にして歌う、もしくは「私」が気に入った歌手の歌をコピーする、当然だろ、と言う人もいるだろう。
異論があることを承知で言う。

彼の「いつの間にか少女は」とか・・・これは小椋佳の「白い一日」と
その目線が似ている「少女」をなにか意志を持たない人形のようにとらえているなと・・・若い女性に対するあこがれ、その存在に感じる神秘さとか自分もよくわかるのだが、なにかこのポルノアニメに出てくる少女・・・自分の妄想を満たしてくれる少女とどこかで通底しているような気がするのだ。
きれいで神秘的なイデアの少女・・・血も肉も備えた生身の思春期の女性は描かれず・・・「私」=「自分」の中にのみ存在する女性。

それは裏返しの自分

リリシズムとナルシズムとおそらくエゴイズムがあいまいになり

オタクと言う言葉もすぐに生まれるようになる。


陽水氏の歌はのりもいいし、声もいい。

でも、どうして自分がのめり込まなかったか、
自分が変わり者だったからだろう(^_^;

それから陽水氏に続いて、さだまさし氏、中島みゆき氏といろいろ人気の歌手が出てきたけれど、これはすごいという人には出会わなかった。

なぜなら

自分が変わり者だったからだろう(^_^;






画像はぼろで汚れたソングブック・・・でも宝物

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